“アイドル”について語る枠を設けた。
しばらくの間、「自分はもうそういうのは早々に卒業したとですばい」と九州男児ぶっていたが(そうか?)、やはり青春時代を彩った、というかむしろエネルギー源であったものを今の自分から切り離して考える事はできない。やってはいけないのだ。と思っての選択だ。
早くも文章が支離滅裂だが心配無用だ。
アイドルを語る時、男は基本的に血迷っているものだ。
だから、ある意味ではそれが正解なのだ。
○中川翔子がメインカルチャーになりつつある問題
かわいい顔に対して中身のギャップで見せる、というのはこれまでのアイドル史にもあったことだが、どれも付け焼刃程度のものでしかなく、中身が本物の生粋のマニア体質、というインパクトがとりわけ強かったのが彼女だ。
事務所の方針とかおそらく関係なく自主的に自分からブログでその独特の世界観を作り上げてきたのだ。
まさにセルフプロデュースが最初から出来上がっていたと言える。
(ボクはかなり初期から知っているが彼女はドしょっぱなからすでにコアだった)
しかし「アキバ系」というジャンルの認知度が高まり「萌え」という言葉が蔓延するにつれその需要は広まり、ついにはそういう業界の女神のような存在にまで祭り上げられてしまった。
ここからが良くない。以降の中川翔子の仕事はどうにも“オールOK”な感じがあるのだ。
「へぇ~、コスプレやるんだ。しょこたんらしいね」
「へぇ~、声優やるんだ。しょこたんらしいね」
「へぇ~、CD出すんだ、しょこたんらしいね」
ダメなのである。
本来彼女はそんな暖かい目で見守っちゃってはいけないのだ。
そういう見方で、彼女の背負うサブカルチャーの世界をメインカルチャー扱いしてはいけない。
現状、サブカルチャーがメインカルチャーを脅かすのではなく、メインカルチャーがサブカルチャー寄りになって胡坐をかいてしまっているだけに、ことさらなのだ。
外見と中身のギャップにちょっと退くぐらいの距離感が本当はちょうどいいのだ。
中川翔子が着るべき衣装は、新しく作られてくる可愛らしいドレスなんかじゃなく、ブルース・リーのトラックスーツ(ヌンチャク付き)なのだ。
―劇団の脚本も書かずに何を書いているんだろうか自分。
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